もやもや雲

漠然としたもやもやをできるだけシンプルに

母は「信じる」ということを間違えた

勉強やしつけ、マナーに厳しい母だった


幼稚園の頃から塾に通っていたぼくは成績が良かった


「天才」と持て囃された
ちょっと成績が良いだけで雲の上の天才扱いだった。小学生はそういうものだ。

ただみんなより早く勉強を始めただけなのに


幼稚園からサッカーをやっていたおかげで長距離も短距離も学年1位だった


やはり「天才」と持て囃された。
足が速いだけで雲の上のヒーロー扱いだった。小学生はそういうものだ。

ただみんなより早く運動を始めただけなのに。


友達からも、先生からも、友達の親からも、そして母からも、


褒められた。


そしてますますハードルは高くなっていった


テストで80点を取ったらビクビクして帰った。怒られるから。


学校でも塾でも母からも決まって言われる言葉がある


「あなたはできる子。やればもっとできる子。そう信じているから」


友達の中のぼくはいつまでも天才であり、ヒーローだった


誰かに負けることは許されなかった


追い越されることは許されなかった


勉強に関して言えば、ぼくはまんまと「天才」の椅子に座っていた。だってぼくは現時点で「天才」であって、さらに「やればもっとできる」のだから


小学校まではそれでよかった。
挫折を味わうのは、現実を知るのはもっと先だ


運動に関して言えば、少しずつみんな部活やクラブ活動に精を出す。

成長期が早い子もいる。

ぼくは長距離も、短距離も、サッカーもみるみるうちに追いつかれ、追い越されていった


でも友達は言う
「きみが負けるわけないよね?」

そして母は言う
「やればできるから。お母さんはあなたのこと、信じているから」


ぼくは、いつからか、少しずつ、心の中に、何かが沈殿していくのを感じていた




「本当のぼくを見てよ…」


ありもしないぼく像を勝手にイメージして、押し付けて、結果が出なければ、落胆される。失望される。


「本当のぼくはどんな人間なんだろう」


彼らの、周りのイメージ通りに生きなくてはいけない


幼心に深く食い込む鎖


「信じる」ということは、勝手なイメージを押し付けることだろうか。


出来てもいないこと、訪れてもいないことを期待し、確信することだろうか。


待つことだろうか。


たぶん違う。


「信じる」というのは、「ありのままの姿を受け入れること」ではないだろうか


「お前ならできる」と檻を作ることじゃなく

「どんな結果でも良いよ。ドンと行って来なさい」と軽く背中を押すことじゃないだろうか


世の中に「信じる」という言葉は溢れている


たぶんほとんどが押し付けだ。ただの。


任せること


そして結果を受容すること


それが「信じる」ということ


で、あってほしい