もやもや雲

漠然としたもやもやをできるだけシンプルに

今なお進む心の環境破壊

ブログのタイトル「もやもや雲」についてもう少し書こうと思う。

 

前回、前々回と書いてきたように日々生活していく中で頭の中に何とも形容しがたい悩みや不安=もやもや雲が湧き出てくる。そのもやもや雲は形や言葉にして表現しにくい為に解消されることなく、広がり続け頭の中を多い尽くし光を遮ってしまう。

 

さて…ではこの「もやもや雲」は一体どうやって解消していけば良いのか。

これを考えていかなければ何も始まらないし、どこへも行けない。

 

まず一番ポピュラーでシンプルな方法は、自分の好きなことをしてもやもや雲を溜めないことだ。これはもやもや雲がまだ少ない状態、もしくはまだ発生していない状態に限られる。わくわく風を頭の中に吹かせて、もやもや雲をどこかへ追いやってしまえばいい。

気晴らしやガス抜きといったものがこれにあたる。

空が青く澄み渡り、心地よい日光が差し込んで体を包み込むような柔らかい風が吹いていれば、多少のもやもや雲があっても何ら問題はない。

むしろ何でも許してもらえそうな暖かい自然の情景を引き立たせる良いアクセントになるはずだ。

 

問題は空全体を覆ってしまうほどの、どんよりとした厚いもやもや雲に覆われてしまった時だ。ここまでくると空を覆い光を遮るだけでなく、雨となり地表に降り注ぎヘドロやコケとなって地表へ残り続ける。もしくは土砂崩れや洪水を引き起こし、地表が壊れてしまったり地形そのものの形を変えてしまうかもしれない。酸性雨となればあなたの大事なものを溶かし見るも無残な姿に変えてしまう。

 

そんな自分を蝕み、破壊するほどの分厚いもやもや雲を抱え、心の環境破壊に耐えながら生きている人たちがこの社会にはたくさんいる。

 

僕もその一人だ。

いや「だった」という方が正しいのかもしれない。

自分のことをそういう人間だと公言するのは、何だか言い訳を作って甘えているような…開き直っているような感じがしてあまり好ましくないと思っていた。

今も少しそう思っている。

 

が、僕は今仕事をして遊んで静かに暮らしている。何に対しても、どんな見方をしても何かの言い訳にして甘えているということにはならないはずだ。

そして何より、自分に起こったことをできるだけ客観的に、冷静に、細かく分析していかなければ、時おり雨期のようにしとしとと、静かに僕を蝕む雨を降らせるもやもや雲を減らしていくことはできないと思っている。

 

もやもや雲を解消するのに、最もやっかいなのが得体の知れないものだという点にある。前回のブログにも書いたけれど、人間は得体の知れないものが怖い。怖くて仕方がない。怒りなのか、悲しみなのか、そもそも何に対してこの感情を抱いているのか、何が自分をそうさせているのか…それがわからない。

 

これを解消していくにはやはりちゃんと形にしなければならない。

発生したものは消化されるべきなのだ。

受精したら出産される。

摂取したら排泄される。

生まれたら死ぬ。

自然の摂理と同じ。

 

音に、絵に、像に、そして言葉に。

どんな形でも良い。ちゃんと形にして外に排出しなければならない。

 

僕は言葉を選ぶ。それが自分に一番性に合っていると思うからだ。

時間はかかるかもしれないけれど、少しずつでも形にしていこうと思う。