もやもや雲

漠然としたもやもやをできるだけシンプルに

「言葉」に宿る責任

日頃、ニュースを見てると何だか窮屈だなぁと感じることが増えた。

「それも⁉︎」と驚くようなケースが体罰とかセクハラになっていたりする。

そういう珍しいものは目を引くので簡単に取り上げられて、局地的なものが全体的なものに流れている感じはするけれど。なんだかそこまで締め付けなくても…と思ってしまう。

 

平等とか自由とか、便利で力を持っている言葉を捻じ曲げて拡大解釈して利用している人間が増えたのかもしれない。それが生きづらかったり、窮屈な社会に感じる要因の一つだと思う。

言葉の重さというか本質自体が変わってしまっているし、使い方がとても危険な方向に向かっている。しかもこういう言葉の本質を捻じ曲げている当人にはその自覚がないから余計にやっかいだ。本来、日本には言霊という言葉があり言葉には魂が宿るという考え方だ。そのくらい言葉は重く深いもののはず。

 

元々は生活を円滑に回すために生まれた言葉が、今では人を生きづらい社会にする要因の一つになってしまった。

 

平等。

男女の平等。

人はみんな平等。

聞こえはいいが、そもそも平等というのは状態を表す言葉だったはず。

偏りなく一様に整っている様が本来の意味。

しかしこれは狭い枠でしか使えない。そして目に見えてわかるものにしか適用は難しい。量とか数とか。生物が、人々がみな一様に同じというのはほとんどあり得ない。

 

日本国憲法においては法の下の平等が記されている。

法の下の平等とは、人種・信条・性別・社会的な身分又は門地により、政治的、経済的又は社会関係に置いて差別されない。

というように記述されている。

 

法の下の平等とは、「何でもかんでもみんな一緒」ということではなくて、

「まぁみんな色々違うけれど、それによって差別しちゃいけないよ」ということである。

 

みんな人それぞれ違いを認めた上で、それでいいんだと認めること。

僕が思うに、この世に置いて絶対的に平等なのは(みな一様に同じという意味合いにおいては)死だけである。

死ぬことだけは誰においても訪れる。

 

それが今では「平等」という言葉は良いように使われ、ある意味での暴力になっている。自由や体罰、セクハラなども平等と同じように使うものの良いように捻じ曲げられ、利用されている。それがネットの普及とともに爆発的に広がっていった。

それを拾った人がまた良いように使い始めた。

 

自分の身の程を超えたカラカラの言葉を、我が物顔で使う人間によって傷つけられる人間も多い。成功者の言葉をあたかも自分の経験談かのように使う人間もいる。

そういう人間によって言葉は使いまわされ、意味や価値が失われていく。

 

このまま歯止めがきかずに拡大し続けていけば、そのうち魔女狩りのようなことが起きてもおかしくない。いやもう起き始めている。

 

もう少し言葉や行動に重みがあってもいいんじゃないかなと思うんだけど、どこを見渡しても言葉がすごく軽い。

なんだかな…色々便利になっているはずが副作用みたいなものが広がっている気がする。