もやもや雲

漠然としたもやもやをできるだけシンプルに

偉人の言葉から考察する「人が生きる意味」

「人が生きる意味ってなんですか」

 

多くの人間に最初に訪れる哲学じゃないだろうか。

早い人なら中学生くらいにはそういう問いが生まれてくると思う。

 

自分の人生や生活に不満が多ければ多いほど、こういう疑問にとりつかれる。

 

人が生まれてきたことは偶然の産物か、それとも意味を持って生まれてきたのか。

 

過去に哲学者や宗教人を始め多くの聡明な人たちがこの問いについて真剣に考えてきた。それでも現代において未だ納得のいく確実な解は明かされていない。

 

そんな難易度マックスの問いについて今日は凡人の僕が考えてみようと思う。

 

まず、人が生まれてきたことが偶然の産物だった場合。

この場合の答えは明快でしょう。

 

「人が生きている意味なんてない」

 

はい。終わり。

 

これは、地球の発生や人の発生・進化は化学反応によるもので何らかの意図が存在するものではない。何となく色んな条件がたまたま揃って何かが始まり、何となくそれが終わるまで僕らは時間の中を流れていくだけの存在ということだ。

そこに意味なんてない。

雨が降るという現象に原因はあるが、降っていること自体には何の意味はない。

 

僕らはその自然の法則に合わせて流れていけば良い。

 

では、人が生まれたことに何らかの意味がある場合。

これはたくさんの疑問が付随してくる。

 

意味があるということは、「存在」の前に「意味」が先に在ったということになる。

そうするとその「意味」を作った存在が必要になる。

いわゆる創造主だ。全知全能の存在。

 

それを仮定づけたのが宗教ということだろう。

神がいて、神の御心のままに存在する理由を与えられ、神からの試練を全うする。

 

しかし日本では宗教というものはあまり深く根付いていない。

むしろどちらかと言えば、「八百万の神」「自然崇拝」は「人生は偶然の産物」の考え方のほうがしっくり来ると思う。

 

意味を作った何らかの存在があったとして、なぜ僕らの脳には「生きる意味」がインプットされていないのだろうか。「意味」を持たせたのなら、脳にしっかりとインプットさせてそれに向けて生活させたほうが、「意味」をもたせた先にある結果にたどり着けるはずなのである。

 

では、例えば「生きている意味にたどり着くのが生きる意味」だった場合。

それはたぶん一個人でたどり着けるほど、容易なものではなく極めて壮大で先の見えない問いということになる。

 

「自然の全てを説明するのはたった一人の仕事や、たった一時代の仕事としては荷が重過ぎる。少しのことを確実にこなし、残りは後代に託したほうが何事も確かめずに憶測を元に全てを説明しようとするよりはずっといい。」

 

というニュートンは言葉を残している。

ニュートンを持ってすらも「荷が重い」のである。

僕らは生きている意味を模索しながら、自分なりの答えをおぼろげながらも探し出し、生を全うし、それを後代に伝え残していかなければならない。

ということかもしれない。

 

僕の中ではこの考え方が一番しっくりくる。

もしくは「人が生きていることは偶然の産物である」という考え方。

 

どちらにせよ、物心ついた時に自分の生きる意味が設定されていたとして、もしくはいきなり目の前に杖をついたじいさんが現れて

「お前さんの生きる意味は世界中のゴミを拾って回り、世界中を綺麗にすることなのじゃ」

なんて言われたところで

「そうか!じゃぁ明日からそれに向けて頑張らなくちゃ!

なんてことには一切ならない。

 

これだけの長い時間と多くの天才を動員してさえも、未だ解明されない問い。

 

じゃぁ今、僕らにできることはなんだろうか。

意味を見失ったまま捉われ、さまよい続けるのか。

目の前のことを精一杯取り組んでいくことか。

 

意味がないのなら、自分で作ってしまえばいい。

なくても別に困るものでもない。

意味がなくちゃ存在してはいけないなんて、器が小さすぎる。

 

正解も不正解もない。

そもそもの真実なんてわかっていないんだから。

 

もし本当に「生きる意味」を模索したいのなら、人生を捧げて研究するべき課題だと思う。それはそれでぜひ頑張っていただきたい。

 

僕は僕なりのおぼろげな解を、親でも子供でも、友達でも誰かの心のどこかに残すことができればいいと思っている。