日本の新興宗教「自己啓発」
自己啓発結構。
最初に言っておくけれど僕は自己啓発を軸にしている人を全否定したいわけじゃない。
今、自己啓発というものがピークを迎えている。
豊かな人生を送る為に自己を高めるメソッド。本屋に行けば
「成功者が必ずやっている3つのこと」とか
「素敵な人生を送る為に◯◯しなさい」
「◯◯はもうやめなさい」
という類の本がごまんとある。
裏を返せばそれだけ人生に悩んでいる人が多いということだ。
もっと細かく言えば人生に悩むライトな層が増えたのだろう。
社会人にもなるとある程度身近に自己啓発に傾倒している人が存在していることも多い。
企業の新人研修や管理者研修ではブートキャンプ的なことを行う企業の露出も増えてきた。
大きな声で時には涙を流しながら自分を否定し夢や目標を語る。そんなシーンを見たことがある人も多いと思う。
で、それはそれで別に構わないと思ってる。
何が問題か。
自己啓発によって勘違いしている人が増えている。
すごく強力な武器を手に入れたかのように振る舞い、他人の悩みや言動に対して物知り顔で口を挟む。
僕はそういう人間が物凄く苦手なのだ。
なぜああいう人たちは他人の悩みを
「あぁそれね!」
と、さも自分が経験してきたことかのように、そしていとも簡単に乗り越えてきたかのように語るのだろう。
そこに
「悩んでいる人の力になりたい」
というよりも
「こんなことを知ってる自分・考えている自分って凄いでしょ。あなたが悩んでいることを簡単に答えちゃった」
という自己顕示欲が透けて見えて正直ヘドが出る。
宗教と何ら変わらない。むしろ同じだ。
そのうちそういう団体が出てきてもおかしくない。むしろ宗教の始まりと何ら変わりはないのだから十分新興宗教として成り立っている。
宗教にはまる人も自己啓発にはまる人も一緒だ。恐ろしくピュアなのだ。
僕みたいに歪んだ人間は好むと好まざるに関わらず、そして善くも悪くもどんなに素晴らしい考え方や成功してる人の言葉でもどこかに疑い…というか考える余白を残してしまう。
すんなり受け入れられたらどんなに楽だろうと思うことがある。
が、例えばどんな目上で実力のある人に「◯◯するといいよ」
と言われても
「はい!そうですか」
とならない。
なんでだろう。
他のやり方はないのかな。
何でこのやり方がいいんだろう。
そうやってあれこれ考えて最終的に最初に言われた「◯◯」に辿り着いたとしても後悔したりはしない。
あぁなるほど。となるだけである。
言われた時点で素直に行動に移した人間と考える時間を持った僕ではどうしても差が出てしまう。遠回り。不器用。
それでもすべては納得が優先される。
だから僕には自己啓発や宗教は向かない。それは歪んでいるというのもあるし、「もしそれが間違っていたらどうするの?」と考えてしまうからである。
臆病なのかもしれない。
100%信じて身を委ねて結果うまくいかなかったらどうする。
自分の判断で選択しなかったのに責任は自分で取らないといけない。
だったら僕は間違ったり失敗したり挫けながらも自分で考えて進んでいきたいと思う。
宗教ではすごくそこらへんは徹底してある。願いが叶えば宗教の力、叶わなければ自分の信心が足りない。
とかね。
自己啓発でも似たようなもんだ。叶ったのは自己啓発通りにやったから、ダメだったのは「結果を出せない人がやってる習慣」をやってしまってたから。
とかね。
物は言いよう。
でも凄くわかりやすいシステムだと思う。対象の問題点と解決策を簡潔に示してあってそれ通りにやれば悩まなくて済む。
確かに幸せと感じるのかもしれない。
実際にそういう彼らは幸せそうに見える。
でもそんな狭くていいのか。
そんな似たり寄ったりの思考を持った人間ばかりだと僕は何だか気味の悪さを覚える。
同じ形の笑顔の仮面を被った人間にしかみえない。時代に即した人間を作るための、聞き分けのいい人間を作るためのシステム。
しかも最近では高学歴でない「普通」の人たちが年収1億円になった…というストーリーも多い。だからみんな流されてしまう。これを読めば自分もそうなれるかもしれない。
別に彼らが彼らで幸せなら何も言わない。ただそうじゃない人間を全力で排除しようとするのは止めて欲しいと思う。土足で人のこころにあがりこんで踏み荒らしていくのはやめて欲しい。その不気味な笑顔の仮面が怖い。
どんなことにも様々な面がある。100%なんてことはほとんどの場合においてありえない。世の中あいまいなのだ。流れて漂ってるものだ。だからどんな正しそうなことでもある程度の隙間を開けておかないといけないと思う。もしそれが正しくなかったときに道を見失わないように。
そんなに生き急いでも仕方ないだろう。
もっと落ち着け。
漂え。
そうやって色々考えて味わって生きていきたい。