本当の優しさはどこにある
僕は「優しい」と言われる事が嫌いだ。
答えは簡単で、僕は「優しくない」からだ。元々怖いと言われ続け人に対して優しさなんて持ち合わせていなかった。
じゃぁどうして「優しい」と言われるようになったかと言うと(これはとても恥ずかしい動機なのだけれど)中学の修学旅行で
「どうすれば女の子にモテるか」
という思春期特有の話になり、モテる男子から
「女の子にもう少し優しくしたほうがいいよ」
と言われたのがきっかけだった。
単純な僕は次の日から「優しい」と思われるための行動を取るようになる。
次第に「意外と優しい」の称号を与えられた。
今ではモテるためにやってるわけではないが、「こうすれば優しいと思われるだろう」とか「こうすれば喜ぶだろう。褒められるだろう」という先読みのもと、行動することがある。
僕の「優しさ」は全て打算的で計算的な嘘づくめの「優しさ」なのだ。
そんなものはもはや「優しさ」とは呼ばない。
「優しさ」とは内面から滲み出るもので作り出すものではない。
「優しさ」は「優しさ」だけで完結し、それ以外の意味を持つべきではない。
次第に僕は「優しい」と言われると「嘘をついて騙している」という罪悪感に苛まれるようになった。
僕は決して優しくない。
心の中では人を見下し厳しく評価している。毒もよく吐くし憐れむこともある。
ただ一度だけそのことを知人に相談したことがある。
「優しいと言われることに罪悪感がある」と。
その知人は
「打算的なのは頭が良くて先が見通せるから。裏で何を思っていても結果自分より人を優先して人を喜ばせられる、それが優しさなんじゃないの?それで喜ぶ人がいるから何も間違っていないと思う」と言ってくれた。
全くもって目から鱗。
その言葉で
「そうだ!僕は頭が良くて本当に優しいんだ!」
とはならなかったが、あんまり自分のことを自分で評価しすぎるのもよくないなぁと思うようになった。
周りから見て良ければ良いと言われるし、悪ければ悪いと言われる。
自分が自分をどう評価しようともそれが現実なのだ。
あまりある一つの物事(例えば自分や相手、事象)に対していちいちカテゴライズしていく必要はない。
と、いうかそのカテゴライズ自体が正確性を欠いている。一つの概念の枠に留まる事象なんてあり得ない。
評価や受け取り方も人や状況によりどんどん変わっていくものだから、あんまり頑なに「これはこう!それはそう!ここをこう!こう!こう!」と決めつけていかなくていいんだと思う。
ジグソーパズルみたいに何でもかんでも綺麗に型にはまるわけじゃない。
もっと柔らかくふわふわと漂わせておけばいい。雲みたいに。
というとこのブログの意義(もやもや雲を解消する)に反するのだけれど、それもそれで良い。
時と場合によりにけりだ。
それでいいのだ。